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NO TIMES

~ 指揮者、大学院生、囲碁将棋、時々尺八

NO TIMES

月別アーカイブ: 3月 2003

生々流転

31 月曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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悩みのない人はいないだろう。どんなに脳天気で、楽天主義な人でも、お金や才能に恵まれている人も同様だろう。もし悩みがない人がいるとしたらその人の人生は退屈で退屈で仕方ないと想像出来る。

とはいえ、できれば悩みは少なく、軽く、ほどよいに越したことがない。よく言う「贅沢な悩み」というのがあるが、それなども悩みの範疇に含めると人生のほとんどは悩みなのではないかとさえ思う。

私はよく独身の頃「金で済むことだったら」と冗談交じりにいっていた。実際に私にお金があるわけではないが、それでも金で済む悩みというのが如何に軽微なものであるかをイヤというほど知っていたからだ。

逆にいえば、金では済まない悩みを抱えている人の悩みこそが本当の悩みといえるのではないだろうか。例えば健康を害しているというのは最も深刻な部類の悩みだろう。この季節でいえば「花粉症」というのは案外軽視されているかもしれないが、かかっている人にとっては辛い悩みだ。

私にとっても悩みはいくつかあるが、ここ数年ではたった一つといっていいだろう。それは「仕事」のことだ。2年前の4月に退職して以来私は自分がやりたい仕事は出来ずにいる。それでも何とか全く無職ではなく糊口を凌ぐだけはやって来たし、現在は職種こそ希望のものではないが、決して贅沢は言えない厚遇を受けている。

本当に人生は思うようにはいかないものだ。人間関係や、タイミング色んなものの妙を感じずにはいられない。明日はっきりするがどうやら再び転職活動を再開することになりそうだ。

私はこの2年間で2つの真理を得た。1つは「やりたくないことは絶対にやらない、逆にやりたいことは石に齧り付いてでもやる」ということ、そしてもう1つ「就職は結婚と一緒でタイミングと縁」だということ。

私は考えうる最良の伴侶を得ている。その点からいえば、この上就職にまでそれを求めるのは「贅沢な悩み」なのかもしれないが、私は知識と経験を得て今までより進化していると信じている。

自慢するわけではないが、私は女性にはそれなりにもててきた。人間的には未熟な私だが、人間関係に関しては自信があった。同様に考えれば、就職もさほど難しいことではないだろう、と思っている。

ここしばらく落ち着いていたが、又明日から激流に身を投じなければならないようだ。
どうなることやら、乞うご期待!

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マスコミのありよう

30 日曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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聞きかじりなので断言は出来ないが韓国の盧大統領がマスコミに対して強烈な批判をしたとのことだ。曰く「強大な権力であるにもかかわらずそれをチェックする機能がない」「結果責任をとらない」等々。

少しだけ調べてみると盧大統領はこのマスコミ責任と反米とクリーンなイメージが支持されたのだそうだ。太陽政策の後継者というイメージは極一面でしかなかったのだ。

私も一応マスコミの片隅で仕事をしていたものとしてそのありようについて、この日記でも重ねて批判を重ねてきた。全く盧大統領の指摘の通り、マスコミが全くフリーハンドなのは大きな問題がある。

もちろんその反対側には「言論の自由」という錦の御旗がある。数日前のことだが、私がよく書き込みをしていた掲示板の書き込みがすべて消えていた。私も絡んでいたのだがイラク問題について意見を闘わしていたからというのが理由のようで、管理者の削除ではなく、サーバー側で全部を削除したのだ。

あとで確認してみると確かに「政治宗教の話しは削除の対象」と書いてあるし、サーバーは借りているものだから予め断られている以上私の過失ではあったのだが、言論の自由が最も守られるべきネット上でこの、全く根拠の薄弱な規制は何なのかと激しく憤った。

日本人は海外の人と話す時は政治と宗教の話しは避けるべしというが、大概の本に書いてあるが、私はそれは多くの日本人には政治に対しても宗教に対してもきちんと姿勢がないからだと理解しており、私は機会があればそのどちらの話しもするようにしている。

例えば本日イラクに従軍しているアメリカ軍の牧師さんがミサを行ったあと、正しい戦いでは相手を殺すことも正当だと発言していた。とても宗教家の発言とは思えないし私は激しくその意見には反対したい。人を殺すことが正当化されるのであれば、それが信念であろうと宗教であろうとそれは間違っている。

話しがずれた。

自由には責任が伴うのは当然の話だ。権利には義務だ。同様に権力にはチェック機能がなければならない。そして盧大統領のいう通り、マスコミは非常に強力な権力で、それに対して何らかの規制をするのが難しければ、当然事後責任を追及するのがものの理だろう。

実際には難しいかもしれない。しかし戦争が生中継される世の中だ。何らかのガイドを作らないと無秩序は助長されるはずだ。

新世界より

30 日曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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本日もオケの練習。2週続けてトロンボーンが3本揃った。そして新曲ドボルザークの交響曲9番「新世界より」の4楽章をやった。

今週新たに勉強出来たことは、いままでトロンボーンは一人だったので、好き勝手に吹くことが出来たが、それではいけないという当たり前のことに気が付いたのだ。例えば新世界ではトロンボーンとトランペットが同じ旋律を吹く場所がある。6人の金管奏者が好き勝手に吹いていたのでは演奏は「当然揃わない」。

ここが面白いところだ。音楽というのは好き勝手にやると「当然揃わない」のだ。楽譜に書いてあるのだし、少なくともトロンボーンセクションだけでも揃うのかと思いきや、これがまず絶対に揃わない。

つまりオーケストラのサウンド云々の前に、金管パート、トロンボーンセクション、そして個人と様々な関門があって、そのどの段階でもアンサンブル能力が必要なのだ。音楽をやっている人にとっては当たり前のことだが、これが不思議といえば不思議だ。

例えば、文字で書かれたものを誰かと読む時に句読点のところで息を吸うことという約束さえ決めておけば、それほどずれるということはない。それはそうだ。誰が読んでも「それでは」は「それでは」で、「そーれっでぇはー」でも「そっれっでっはっ」でもない。

ところが音楽は四分音符が四分音符とは必ずしも言えない。音価通りに演奏すれば子供が演奏する「キラキラ星」のようになってしまうからだ。それぞれについて音程の調節が必要だし、「唄う」ことも求められる。

それにこれはトロンボーンが無限に音階が取れる(もちろん弦楽器もそうだが)楽器なので、ドの♯とレの♭は同じ音ではないのだ。ピアノではこれは同じ音だが、少なくとも弦楽器ではこれは違う音だし、トロンボーンでも本来は正確に音程を取る必要がある。

本日私の横で吹いていた人は楽譜に「高め」「低め」を書き込んでいた。私のように「何かハモンないなぁ」と笑っているのとは違い、彼女には問題点を分析する力があるようだ。凄いなぁと思うと同時に、私ももっと自分の練習をして、少しでもアンサンブル能力を高めなければ、と思いを新たにした。

これは蛇足だが、面白いのはトロンボーンの出番が少ないせいなのかもしれないし、一番後ろの端にいるせいかもしれないが、トロンボーンセクションは茶化すのが好きなようだ。練習の最中もずっと私語をしていたのはうちらだけだった。

今日も歩いた

28 金曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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今日も歩いた。今日は恵比寿駅を出発して東京駅までの約8Km強を1時間半ほどで歩いた。恵比寿から東京駅までは山手線でほぼ反対側だ。品川経由で9駅、時間にして20分ほどだ。普段電車しか利用しない人にとってはこの間を歩くというのは想像を絶するところだが、駒沢通りを少し行くと六本木通りにぶつかりあとは真っ直ぐだ。

地名でいうと恵比寿をでて、広尾、麻布、六本木、溜池、霞ヶ関と通り抜けて、皇居にぶち当たる。桜田門から二重橋前広場を抜けて東京駅までのルートは実はそんなに遠いものではない(特に六本木から考えると)。

今日は昨日ほど風が強くなかったので歩くのには非常に快適だった。恵比寿から麻布までの駒沢通りは初めて歩いたが、住宅街なのか昼間は割と静かな街だ。ところが六本木通りにぶつかり途端に交通量が変わる。しかも麻布から六本木にかけての工事ラッシュたるやすごいものだ。

どこが不景気で、デフレなのか全く理解に苦しむ。マンションなのかテナントビルなのか雨後の竹の子という表現を思わず使いたくなるような建築ラッシュだ。

ところが六本木から溜池にかけてはほとんど昔と変わりがない。強いて挙げるとアークヒルズから六本木に向かって上がるところにどうやら大きなビルを建てているようだが、それ以外はさして目新しいものがない。こうした地域による建築のスピードの違いは何かあるのだろうか?

勤め人時代は霞ヶ関の辺りは良く歩き回っていたが、昔の大蔵省と外務省(科学技術庁)の間の汐見坂を上がったところの信号は「財務省上」になっていたし、首相官邸は新しいものになっていた。外務省はもぬけの殻になっており、一番皇居に近い旧建設省は国土交通省になっていた。

この国土交通省裏に立つと目の前に皇居があり、その向こう側の東京駅方面に丸ビルが見え、大手町の方のビル街まで見渡すことが出来る。左手には国会議事堂があり、都心といえども微妙に高低差があることが分かる。

因みにここで振り返ってみると、いま通ってきた麻布、六本木方面の建築中のビルが見える。信号を渡って皇居の方へ行くとちょっと見え方の角度が変わる。今度は正面に有楽町方面のビルが見え、桜田門まで進むと右手に汐留の高層ビル群が視界に入ってくる。

明らかに東京の景色は変わっている。しかもそのどれもが「新しく」なっているのだ。

私は思った「どっかにお金持ちいるんだろうなぁ」と。

散歩

28 金曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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私は歩くのが好きで、今日は自宅から鶯谷まで約6kmをゆっくり1時間ほどで歩いた。気温は高かったが春の嵐の吹き荒れる中で、多少歩くのに難儀した。

普段バスや電車で通るところを歩くと違う視線から見えてくるものがある。目線の高低やスピードの高低によって物理的に見え方が違うということがあるが、頭の中の地図は案外いい加減にできているもので、店などは順番が違っていたりして驚くことがある。

例えば私はタバコを吸わないので、タバコの自販機については目を留めることもしない。パチンコをしないのでパチンコ屋を記憶することもないし、何日開店かなんてことにも興味がない。街の景色は人によって見え方が違うのだということだ。

しかし街を歩くとイヤでも人間との関わり合いは生まれる。

目の前を歩いている背広のおじさんが、急に立ち止まりぶつかりそうになったり、かと思えば、前を歩いているおっさんが明らかにおならをしたりする。だから私は人の後ろを歩くのがいやなのだが、首を下げて背中を丸めて歩く人はタバコに火をつけているので、十中八九その体勢の1秒後には煙が私を包むことになる。

全くうかうか周りを見ながらなんて歩けないが、基本的に私が歩くのが速いからいけないのだということもある。

今日歩いた道は以前にも歩いたことがあるが、久しぶりに歩くと街は刻々と変化している。モノレールを作っているが、昨年の警備員の経験からどれくらい進捗しているか分かるのは新しい発見だった。

アスファルト工事のあとも、上手なのか下手なのかチェック出来るようになった。これも面白い発見だ。

例えば私はホテルでは以前のバイトをしていたことがあるので結婚披露宴に呼ばれると進行やらサービスやらをチェックしてしまう。写真屋でバイトしていたので写真の色を見るほかにすぐひっくり返してどこのペーパーかチェックをする。映画館でバイトしていたのですぐに人数を数えてしまう。出版社にいたので、雑誌は奥付から見るし、どんな広告がいくつ入っているかを見てしまう。

道路を歩いていて、以前は本当に視界に入らなかった工事現場が異様に目に付く。もちろん立っている警備員も同様だ。どこの会社か?どれくらいの年齢か?どんな服装か?いままでなら絶対に無視だった存在なのに。

経験を積むと世界が変わって見えるのだな、と思いながら軽く汗をかいて歩いた。

ピクルス

26 水曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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最近私はピクルスを漬けている。元々漬け物の類は好きだが、うちの母親は漬け物は一切漬けない人だった。私の嫁は漬け物が嫌いで、私の希望を聞き入れてぬか床を購入してしばらく漬けてくれたが、自分が食べないものは所詮上手には作れない。私などは自分が好きなものでさえ上手に作れないのだから、それは至極尤もなことだ。

私は東京に来るまで親元で過ごし、食べたいものは母にリクエストするか、購入するのが当たり前だと思っていた。因みに料理に関しては小学校時代より母が病弱だったのでしてきたが、それはチャーハンを作ったり、カレーを作ったりするようなものに限定されていた。

東京に来て一人暮らしを始めると、身の回りのことは全て自分でアクションを起こさなければ何も始まらないという当然に気が付いた。そして気が付いてから私は一歩アクションを進めてみた。

それは例えば、パスタを自分で打ってみたり、うどんを打ったり、餃子の皮を作ったり(みんな小麦粉だ(笑))スライサーを利用してポテトチップスもジャガイモを揚げて自分で作った。恐らくこうした動きは究極的には野菜を自分で作るところに辿り着くのだろうが、まだそこまでは行っていない。

因みに手作りのフィットチーネやうどんは大変に不格好だが、これに感動しなかった女性は一人もいない。味はさておき(爆)。

で、最近はピクルス。漬けるのは今のところキュウリとタマネギとニンジン。ところが調べてみると野菜と果物なら大抵のものはピクルスになるのだそうだ。トマトやらキャベツやらがあれば、オレンジやリンゴ、タコやワカメまで漬けられるのだ。

とりあえずタマネギのピクルスは大変美味しく出来た。キュウリもニンジンも時間差をおいていい出来になった。次に何を漬けてやろうか企むのがたまらない。

嫁が酸っぱいものが嫌いなので、実験台に使うことも楽しみを共有することも出来ないが、色んなものを漬けてみようと思う。

因みにピクルスがお手の物になってきたら、究極的には手作りタルタルソースにまで到達するのが目標だ。マヨネーズも自作すればオリジナル度はグッと高まる。

ということはそれをつけるものはやはりカキフライか?それとも海老フライか?いやいやクリームコロッケにつけても美味しいだろう。クリームコロッケはカニか?それとも…。

ビンを眺めているだけでも結構楽しくなってくるから不思議だ。

1日遅れのアカデミー賞

25 火曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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何の自慢にもならないが、私は91年から92年にかけて日本アカデミー賞協会の会員であった。自慢ではないが話の種には面白いので、たまにこの事実を語ってみたりする。

さて、恒例のアメリカの映画アカデミー賞の発表が昨日あった。毎年これはNHK-BSが生放送していたので、私もほぼ見ることができていたが、今年はなんとWoWoWの放送で、生で見ることはできなかった(NHK-BSで来月に放送するようだ)。

ニュースでも「千と千尋の神隠し」の長編アニメ賞受賞が報じられたりしたが、今日の話題はやはり「ボウリング・フォー・コロンバイン」というドキュメンタリー映画で受賞したマイケル・ムーアという監督について書くしかない。

彼は、政治発言は暗黙のタブーとされているアカデミー賞の受賞スピーチの場で「恥を知れブッシュ、戦争反対だ!」と叫びまくった。拍手と同時にブーイングが起こっていた。主催者側はスピーチを遮るようにして退場のミュージックを流した。私には慌てて流したようにすら聞こえた。

私は彼の立場に特に賛成でも反対でもない。アカデミー賞のタブーを破ることについては眉をひそめるが、彼という人間が政治的、社会的な立場に立脚していることも理解出来るから彼がそう発言したとしても不思議はない。

彼の撮影した映画は99年にアメリカの高校で起こった、高校生の銃の乱射事件を扱ったものだ。トレンチコートマフィアという単語を聞いたことがあるかもしれないが、これは白人至上主義やネオ・ナチとつながりがあるようだ。因みにこの事件では12人の生徒と1人の教師が死に、犯人の2人は自殺した。

この映画は私は未見なので論評は避けるし、繰り返すが私は決して彼の立場に立つものではない。しかし唯一彼が語った言葉で完全に賞賛出来るものがある。

「あなたの発言で、国民が暗澹たる気持ちになると思いませんか?」との記者の問いに対し彼は「自由を訴える国だということを証明したかった」と答えた。

私はアメリカという国が正義の味方であるかどうか分からないが、このような言論の自由がある点だけは素晴らしいと思う。もちろんマイケル・ムーアに大した力がないからなのかもしれないが、少なくともイラクや北朝鮮で同様の発言を公の場ですることは出来ないだろう。

この面から見れば、どちらの言っていることがより信用出来ないかは明らかだろう。

聞き流し英語

24 月曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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ここ数日イラク情勢と音楽の話しばかりになっているが、実際私の興味はその2つに集中している。

それ以外での私にとっての重要事項は英語、フランス語、大学院ということになる。大学院のテキストは地域研究ということでイギリスについて勉強するので読み物代わりに読むのに大変よい。元々大学時代も勉強したことがあるし、シャーロック・ホームズやアガサ・クリスティー、007等が好きなこともあり実のところ、日本以外で一番詳しい国はイギリスかもしれない。

その一方でフランス語の勉強が捗らない。実は3級受験に当たっての最大の課題は単語量なのである。そして単語量を増やすにはこれまた(昨日の音楽話に共通するが)長い時間と忍耐力が必要なのである。そんなこんなでフランス語はあまり進んでいないが、英語については面白い試みをしている。

「聞き流し英語」という学習法を聞いたことがあるかもしれないが、要は右脳と左脳のどちらを使うか?ということである。例えばこれは最近気が付いたことだが、外国語が出来るということは即ち「日本語で理解する」ということとは本質的に違うのだ。

どういうことかというとよく外国語が分からない人は「いまのなんて言ってんの?」と日本語での理解を求めるが、英語が出来るということとそれを日本語に訳するというのは全く別のことなのだ。実際のところ単語の意味を日本語に訳が出来なくとも、意味が分かればいいのだ。

この英語を日本語に訳するということは単語や熟語の置き換えを行い即ち左脳を使っての理解ということになる。しかし左脳の何十倍も情報処理速度の速い右脳を使って理解すれば、即ち日本語への翻訳を放棄すれば英語に対する理解が進むという考え方が「聞き流し英語」のようだ。

実際には英語をひたすら聞いて、それを日本語に訳しないで、ひたすら英語のまま頭の中で繰り返す。聴き取れない単語もあるが、聴き取れたものを頭の中で言ってみるのだ。実際に口に出せるようになればいいのだが、私の実力ではまだそこまで言っていない。

毎日BBCやCNNやESPNを見ながら集中しているのだが、これが実に15分もすると頭から湯気がでそうになる。まだ初めて2週間なので、特に目に見えて成果は上がっていないが、心なしか耳は慣れているような気がする。

もしこの学習に効果があるようなら、今年もまたTOEICを受けてみようかと思っている。

些細な幸せ

24 月曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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3連休も今日で終わり。二日連続での痛飲がたたり本日は全休日。心ゆくまで昼寝を楽しんだ。数週間前に書いたが、やはり私はあまり休憩がない方がいいのかもしれない。今日などは食事と風呂以外はほぼ寝転がっていた。ごろ寝とはよくいったものだ。

とはいいながらも、やはり昨日の練習での失敗点が気になって仕方がなかった。一つはテンポが取れないこと。特に付点や休符がつくわけではないが、どうしてもテンポが速くなってしまう。突っ込み気味というよりは明らかに走ってしまうわけで、何とか視線を譜面から上げて指揮者を見るのだが、走り出しているテンポを緩める余裕が今の私にはないのだ。

まぁ、こちらはメトロノームをかけて根気よく練習すればいいのかもしれないが、もう一つの方は解決には時間がかかる。それは「初見がきかない」ということだ。昨日も「ドナウ」ではチェロの譜面を吹くことにしたのだが、途中でお手上げになってしまった。いつものバストロに途中で変えてもらった。

初見に強くなるにはどうしたらいいか、自分でも良く分かっている。一杯譜面を読んで、一杯恥をかくしかないのだ。これは奇跡が起きて明日急に治るというものではない。

どちらにしても音楽の道は大変に根気と忍耐が要求される。

楽器の演奏は譜面を読むという脳内の作業と実際に楽器を扱うという肉体的作業の連係プレーが要求される。頭では分かっているのに実際に出来ないということはよくあることだし、その逆で、なんだか分からないけど出来てしまうということもある。

しかしとにもかくにも、脳と身体の連携の為にはひたすらさらうしかない。さらってさらってさらいまくるしかないのだ。

それにしても問題点が多すぎる(笑)。自分が下手というよりは何も出来ないのでは?とさえ思うことがある。いっそやめてしまえば楽になるのに、と思わないでもないがここで短気を起こしては何にもならない、数年先を見越して忍耐強くやるしかないのだろう。

なんだか人生によく似ている。死んでしまえば一切の形而下の苦労はなくなるが、それでも生きていくのが人生だ。誰もがすぐに答えを求めたがるが、答えがでるにはある程度の年月が必要だ。

また、新たな一週間が始まるが(私はフランス式に一週間の始まりを月曜日に決めている)頑張ろうと思うし、頑張れるもがあるのも幸せだと思う。些細だが確かに幸せだ。

音楽と平和

23 日曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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戦争については概ね昨日で言い尽くした。つまりは「反戦!」の叫びではなく、「平和のかたち」を示すことなのだ。この視点がどうも欠けているような気がする。

さて、本日はオケの練習日。昨日のウィンドの演奏会終了を受けて、ウィンドから応援が来てくれ、ウィンドに出稼ぎに行っていた人達も帰ってきた。已然としてコントラバスという最重要楽器が欠けているが、その分をチューバとバスクラリネットで補ったりして、うちの団らしいユニークなかたちができあがりつつある。

そして本日のトピックは初めてトロンボーンが3本揃ったことである。通常2管編成のオーケストラではトロンボーンは3本ということになっている。どうしてトロンボーンだけ3本かというと実は3本目はバストロンボーンというちょっと違った楽器なのだ。

私が持っているテナーバストロンボーンのパートは1番と2番で、3番はバストロンボーンなので、実際の所バストロは1本だけ、もしくはチューバと2本というの管弦楽法の理解としては正しいのだろう。

ということで本当はバストロが欲しいところだが、テナーバス3本が揃った。いままで一人で情けない音を出していたのだが、腕っこきの演奏者を得てトロンボーンセクションは急に充実してしまった。

楽しかった。楽しすぎて音を出しすぎてしまった。弦楽器が少ない現状ではそこら辺は遠慮しなくてはいけなかったのだが、もう「待ってました」とばかりに3本で頑張ってしまった。

自分が少し上手くなったような錯覚すらしてしまったが、音に酔いしれていると小節数を間違えてしまったりもした。まぁ、ご愛敬と許して欲しいところだが、この先タンホイザーやブルックナーの4番とか8番とか、ショスタコービッチの5番とか、チャイコフスキーの6番とかやることになったら、もしかすると私は感動のあまり演奏出来なくなってしまうかもしれない。

さて、元々トロンボーンとはソロの楽器ではない、アンサンブルの為の楽器といっていいだろう。スポーツでも音楽でも同じだと思うが、チームスポーツやアンサンブルというのはえもいわれぬ楽しみがある。

こうした人間関係の中に苦労や楽しみがあるのだ。音楽的なせめぎ合いや妥協の出来ない部分というのもこの先出てくるかも知れないが、まさに平和というのはこういう形なのだと私は思う。

因みに、音楽の世界では民主主義はあり得ない。指揮者が全てを決めるのだ。

世界を変えていく力

22 土曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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反戦のうねりが全世界で大きくなっている。私も反戦には賛成だ。しかしどうも闇雲に「反戦」と叫んでいるような気がしてならない。世の中には共産党や社民党のように何にでも「反対」と叫ぶことがアイデンティティになっている人がいる。

いま反戦運動をすることは、社会参加のいいきっかけになるし、エネルギーのはけ口としてはなるほどもっともらしいものだ。しかしこの問題のポイントは単に「ブッシュに対して反戦を呼びかける」だけの単純なものではないのだ。

イラクの武装解除は当然大前提として行われなければならないからだ。私が考える最善のシナリオはアメリカの軍事力を背景にフセインに強烈なプレッシャーをかけ武装解除させるものだ。ブッシュがとった「開戦」というシナリオは決して最高のものではないが、とにかく目的はイラクの武装解除にあるということを念頭に置かなければ、ただ単に「反戦」と叫ぶのは、それは単なる「平和ボケ」といわざるを得ないだろう。

さて、今日は私の参加するオーケストラの隣のウィンドオーケストラの初めての演奏会があった。私が昨年の11月に見学に行った時、練習に参加しているのはわずか10人程度だった。それが総勢40人以上の大きな団体になり、きちんとした演奏会を行うことが出来るまでに育った。因みに観客も150人弱にまで達した。

多少音楽のことを知っている人ならこれが如何に凄いことか分かると思う。因みに今回の演奏会は「ミラクル2003」と名付けられた。私は決して名前負けしているとは思わない。これが奇跡でなくて何が奇跡というのだ。

本当にこの団体を動かしてきた人達には正直頭が下がると同時に、半ば呆れている。普通はこんな無謀なことはしない。きちんとメンバーを集めて、ある程度の腕になってからの演奏会である。それがこの団はまず最初にゴールである演奏会を設定してしまった。

そこに向かって一心不乱である。団のポリシーに賛同する人はどんどん膨らみ、大きなうねりとなっている。

私はこれがいま世界中で広がっている反戦運動とは全く似て非なるものだと思っている。反戦運動は理念があるものの、きちんとした現実は何もない(具体的にイラクの武装解除について踏み込んだものがない)。

一方うちの団の行動力は全く建設的に、新たなものを作り出している。世界を変えることが出来るのは反戦活動家ではなく、こういう市井の民なのだと感じずにはいられない。

地下鉄サリン事件とイラクの戦争

20 木曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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オウムのテロがあった日に開戦とは多くの日本人は苦笑いしたことだろう。それともこの日がオウムの忌まわしい事件があったことすらもう忘れてしまったろうか?

世の中の動きについて注視しているが、反戦の輪が広がってる一方でアメリカ支持を打ち出す国が増えている。当然だろう、アメリカと喧嘩するのは「国」として損だからだ。民衆が正論をかざすのとはわけが違うのだ。

私は反戦主義者ではあるが、今回の戦争についてブッシュのみを批判するのは間違っていると思う。もちろんブッシュはアホで猿だが、やはりフセインが全ての原因なのだ。昨日も書いたが中東問題は根が深い。あの地域は長くオスマン・トルコに支配されており、歴史的にはついこの前まで支配下にあったのだ。

フセインが政権をとってから、イラクは戦争ばかりしている。79年に大統領になり、80年から88年までイラン・イラク戦争。ようやく戦争が終結したと思えば今度はクウェートに侵攻して91年に湾岸戦争。そしてその後国連を騙し続けて、戦争に備えてきた。あれほどないないといった長距離ミサイルが、最後の査察では80発以上出てきた。

私は決してサリン事件とイラクのことを一緒にするわけではないが、日本は仮にも法治国家でオウムに対しても(甘く見ていたことはあるにしても)超法規的につぶすことはしなかった。そして捜査の手が入ると言われた日に地下鉄サリン事件が起きた。

アメリカは日本の警察とは違い被害が出る前に手を打ったと言える。こう書くとまるでアメリカを肯定しているようだが、そうではなくて私はアメリカを非難する前にフセインの危険性について指摘したいのだ。

麻原が幼稚で子供じみた人間の組織を作っていたのは知られているが、それでも土地を買い、ヘリを買い、武器を買い、化学プラントも作っていた。方やフセインは世界第2位の石油埋蔵量を誇るリッチな国の元首だ。その恐怖の度合いは段違いといえる。

昨日も書いたが湾岸戦争時にどうしてフセインは責任追及されなかったのだろうか?歴史に「もし」はないが、そうしていれば今回の悲劇は未然に防げたのではないだろうか?

とはいうものの、金日成、金正日親子の世襲や、湾岸戦争時のブッシュの息子が父親のやり残した敵討ちをしているところを見ると、フセインの息子達も「次」を虎視眈々と狙っているのだろう。

歴史はつながると書いたが、人間の血もつながっているのだな。

イラクの自由作戦(仮)だそうだ

19 水曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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言いたいことがいくらでもある。国際社会では「正義」は何の意味もないということだ。戦争が始まれば勝つのはアメリカ側だ。戦争反対を表明してきた国は言い方を変えてアメリカ支持を打ち出し、戦後のイラクの利権をむさぼろうとするだろう。仏露中の態度に注目したい。

例えばこんな言い方が出来る。元々この戦争の原因はフセインにある。彼はイランに侵攻し、クウェートに侵攻し、湾岸戦争中はイスラエルにスカッドミサイルを撃ち込んだ。大量破壊兵器を所持し、国連の査察を拒んだ。もしフセインが本当に国民のことを考えているのなら、彼は戦争回避の大義名分の元に亡命したろう。

それをしなかった。12年間国連決議を欺き続けた。基本的に誰もフセインを支持は出来ないのだ。

戦争が終わりアメリカがこんなコメントを出す。

「実はCIAがタイムマシンを開発していた。みんなには内緒にしていたがフセインは5年後核兵器と生物化学兵器を使って近隣諸国を蹂躙し、第3次世界大戦を引き起こすのだ。それが分かっていたから『今』奴を叩いたのだ」と(爆)。

第3次世界大戦が起きて120万人死ぬよりは、イラク攻撃で何万人か死ぬ方が民主的で合理的なのだ。

そしてみんな勝ち馬に乗りたがる。戦争が終わりフセイン政権が倒れれば、誰もアメリカを非難できなくなる。イギリスでは既にブレア首相の支持率が50%まで回復したそうだ。戦後の論功行賞で小泉総理の決断が評価されれば、彼は国際社会の英雄になる可能性すらあるのだ。

これが勝者の結果である『歴史』なのだ。上記の論調のどこにも『正義』はない。歴史や国際社会には正義はないのだ。私はそのことが嘆かわしいと思う。

フセインが極悪人なのは認める。彼が死ねば丸く収まるし、彼さえいなければこんな事にはならなかったと思う。しかしそのために戦争を行うのであれば、彼と大差はないし、人類はいまだに野蛮人でしかないと証明するようなものだ。

この話はしばらく続くと思うが、私は『元々中近東の国境を決めたのは誰だ?』(英仏両国)という問題と、湾岸戦争時どうしてフセインは戦争責任を誰にも追及されなかったのか?ここを読んでいる皆さんにもこの2つの視点だけは忘れずに持っておいていただきたいと思う。

歴史を点で捉えることは非常に危険である。常に結果が原因を産む因果関係によって成り立っているのだ。幅広い視点が必要だと思う。

カウントダウン

18 火曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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とうとうカウントダウンが始まった。フセインが国外退去する可能性は、なんの情報もない私でもないだろうなと思う。私個人としては戦争は絶対に反対である。決してアメリカの行動を支持はしない。

しかし私が戦争を止められないのと同様に、日本も国連も戦争は止められないのだ。終始一貫してフランス、ロシア、中国、ドイツは反対を表明してきた。私は数週間前にドイツの外相の姿勢について賞賛したが、仏、露、中はその限りではない。この3カ国はイラクの油田の権利を持っているのだ、戦争反対は世界平和の為ではなくあくまで自国の利権の為だと読めるからだ。

なぜか。

答えは明確に示すことが出来る。その3カ国は戦争を止められなかったではないか。一貫して反対を表明してきた。拒否権の発動まで匂わせてきた。しかしそれでも戦争は止められなかった。

それでは無意味だ。いま戦争の大儀とか正当性とか、国連決議の読み方とか、民主主義とはなんぞやなどという極めて現実的ではあるけれども、くそ食らえの議論はただのお題目なのだ。

戦争止めろよ。止められないならそれは認めようとも反対しようとも一緒だろ。死んでいく人間に対して何か出来ないのなら同じだよ。出来ることはやった、ではダメなのだ。現実に止めないと、止めさせないと。

拒否権なんぞ使うくらいなら、特殊部隊を送り込んでフセインを誘拐してはどうだ?それならイラクからフセインはいなくなる。アメリカも攻撃しないだろう。それともどうだ、イラクに対して開戦するなら、受けて立つ!と仏、露、中が言えばどうだ。

戦争反対!アメリカはダメだよな。投票させてくれるなら反対票を入れるな。というだけなら居酒屋で酒を飲んでいるヒゲデブ親父でも言える。本当に世界平和を望むなら出来ることはいくらでもあるだろう。それをしないから、仏、露、中の姿勢は評価出来ないのだ。いわんや国連をやである。

思えば国連も陳腐な組織だ。国際連合の前の国際連盟は結局アメリカの脱退で瓦解した。今また同じようなことになっているし、仮にこれで国連を蔑ろにしたアメリカに制裁が降りないのであれば、国連はもはや機能しないも同然だ。いや実はもうしていないんだな。

ああ、そうか、民主主義と独裁者が闘って地球は滅亡するんだな。全く馬鹿げてる。

独裁者

17 月曜日 3月 2003

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ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニ、キューバのカストロ、イラクのフセイン、ウガンダのアミン、北朝鮮の金日成、金正日親子、ルーマニアのチャウシェスク、ソビエトのスターリン、チリのピノチェト、インドネシアのスハルト、リビアのカダフィ、カンボジアのポル・ポト。

ざっと私が思いつくだけでもこれくらい独裁者が挙がる。私はこの分野には疎いので恐らくこの2倍や3倍はいるだろうと思われるし、例えば中国共産党のように個人としての独裁者ではないが、仕組みとしての独裁はまだまだあるだろう。考えるまでもなく、一番権力を持った独裁者はアメリカ合衆国大統領だという意見もある。

それにしてもこれだけ独裁者の名前を挙げて、何故一人として「善人」がいないのだろう?不思議だとは思わないか?何故独裁者は揃いも揃って、大量虐殺を行い、戦争を行い、富の独占や特権の濫用を行うのだろうか。

どこかに一人くらい、もの凄くいい人がいていいのではないだろうか?恐らく元々独裁者という単語にはそんなにネガティブな意味はないと思う。一人で決める人のことを独裁者というのだから、古い日本家庭のお父さんは須く独裁者だし、オーナー企業の社長はもちろん独裁者だ。

しかし、善政を施し、民に慕われ、国を繁栄させた独裁者がどうして一人もいないのだろうか?いてもいいではないか。

私は何度も言っているが民主主義には飽き飽きしている。民主主義は数の論理だ。51対49なら49の意見は抹殺されるのだ。人間の不完全さをこれほど代表するシステムはないと思うが、この民主主義に対する独裁は何故悪いものなのだろう。

これまた以前も書いたが私は神が善の存在だとは思っていない。気まぐれで、利己的で極めて人間的なものが神だと思っている。しかし誰でもいい、キリストでもアラーでも仏陀でもガンジーでも、マザー・テレサでもキング牧師でもいい、そういう人が権力を握り民を導けばいいではないか。

彼らが善い独裁をすればいいではないか。独裁というのは一人で決めるということだ。私は民主主義よりはよっぽど人間的なシステムだと思う。

どうやら戦争が始まるようだ。民主主義の象徴である国連はなんの力も持っていないようだし、民主主義の旗手であるアメリカは独裁的に戦争に突入していく。

人間が不完全なのは仕方がないのだろうか。

人生の楽しみ

17 月曜日 3月 2003

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今日はトロンボーンのレッスンにいってきた。以前と違い今は私にはオケという実践の場があるので、演奏上の問題点が以前よりもはっきりとしてきている。もちろん実践の場があるということでモチベーションも上がり練習にも力が入るという好循環をもたらしている。

今日などはレッスン前にプロのトロンボニストの演奏ビデオを見ていったもので、テンション上がりっぱなし。今まで手が届かなかったハイE(高い「ミ」)の音が当たった。決して「出た」とは言えないが、今までかすることもなかったこの音が出た。

好きこそものの上手なれ!である。

最近は音楽をすることが楽しくて仕方がないが、仕事以外の楽しみとはなんだろう?と考えることがある。丁度先週話した医者の友人に「仕事以外の楽しみは何がある?」と聞いた。もう21世紀の現代では「読書、音楽鑑賞、映画鑑賞」は趣味には入らない。

結論として彼は仕事が好きで、特に趣味らしい趣味がない「仕事が趣味で悪いのか(笑)」ということである。私もそれは否定はしない。一般に欧米ではそうした仕事人間はとかく揶揄されがちだし、日本人にはそういう人が多いということも理解出来る。

私も趣味とはなんだろうと考えたが、それはやはり「人間性を豊かにする」ということだろうというところに思い至った。

例えば音楽がある。それを仕事にしている人は人間性がどうであろうとも音楽さえ上手であれば評価される。飯が食える。しかしアマチュアはいくら上手に演奏してもアマチュアでそれで生活しているわけではない。つまりアマチュアの目標は上手になることではないのだ。

上手になるように練習することを通して、人間性を高めたり、広げたり、豊かになることが目標なのだと私は考えるのだ。努力とか、我慢とか、協調とか、そんなことを趣味を通して会得していくのだと思う。

以前の私は上手になりたい為に何事もやっていたような気がする。例えば勉強も成績を上げる為だったりした。しかし今の私は違う。成績を上げることは目印でしかない。その先にあるものを目指して頑張ることが、即ち「楽しさ」なのだと分かったのだ。

今さら気が付いたのは遅いのかもしれないが、私は今気が付いて良かったと思っている。凄く変ないい方だが、私は今、なんでも出来そうな気がしている。

大いなる刺激

16 日曜日 3月 2003

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今日は私が行っているアルル音楽学園の発表会があった。因みにアルルは生徒が1200人くらいいるもの凄く規模的には大きな学校で、毎年3月のこの時期は土、日、祝を使って7日くらい発表会の日がある。

今日はその初日で、私の兄弟弟子達の発表があったので聴きにいってきた。出番が来るまで前の発表者の発表を聞くのが毎年の楽しみだが、今年は声楽だった。アルルの発表会というのはもちろんほとんどが素人なので、大抵は拙い演奏ということになる。

音楽的な話しをすれば、いくらでも足りないところが指摘出来るが、そういう批判的なことよりも、いくらかでもいい点が見つかればそれを最大限自分に生かすという姿勢で臨むのが正しい鑑賞法だと私は思っている。

大体、普通は演奏を聴く時は素晴らしい演奏を期待したり、眠くなるのを我慢したりといった感想を持つものだが、こうした素人の発表会は「ミスなく出来るか」とか、「最後まで出来るか」とか「頑張れ」(知らない人なのに)という一種独特の異様な緊張感に包まれている。

これはアルルの代表も言っていることだが、プロの演奏から得るものは少ない、仮に何か得てもそれを自分に生かすのは難しい、むしろ素人のダメな演奏から得るモノは大きいし、それは自分の演奏に生かすことができる。

大部分は反面教師で、緊張してテンポが速くならないようにとか、堂々と吹くとか、ゆったりと動くとか、お辞儀の仕方とか、立ち方とか、ボリュームとか、声楽の発表を見て、聞いていてもこれだけ色んなことを思い、心にとどめることが出来た。

因みに声楽の最後の凄く上手い人がいた。上手い人の発表は確かに得ることよりも「上手いなぁ」と感嘆しているうちに終わってしまうことが多い。どこがどう良いかは素人には判別出来ないからだ。

さて、肝心のトロンボーン・ユーフォニアムチームの発表は近年まれに見る熱演だった。ソロはダイナミクスに優れ、アンサンブルはとても楽しそうにまとまって聞こえた。

人の演奏を聴かない奴は上手くならないし、誰も観客がいなくても舞台に立てばそれだけで演奏は上手くなると私は信じている。

来年は是非発表会に出たいと!強く思いながら、打ち上げでしこたま呑んだ。

犬も歩けば棒に当たる

15 土曜日 3月 2003

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犬も歩けば棒に当たる。いい諺である。

札幌はご存知の通りほとんどの市街地が四角形をしており、道路は東西南北に切られ、街は碁盤の目をしている。だからどこかへ行く場合に数通りの道を通っていっても同じ距離ということがままある。

歩いていく時に、私は歩くのが速く、混んでいるところが嫌いなので、なるべく人が歩かないような道を歩くことにしている。しかし私の友人で「俺は必ず人の多いところを歩く」と言い切る男がいた。

彼曰く「いい女と出会う確率は、人通りに比例するから、少しでも確率アップの為に人の多いところを歩く」というのだ。

いや、確かにその点においては彼のいう通りだし、彼はナンパの成功率も高い男だったので私はなるほどと頷くしかなかった。

私は道路は相変わらず、人通りの少ないところを歩くことにしているが、友人関係などではなるべく多くの人と出会えるように努力している。独身の頃は合コンの誘いを断ったことはないし、周りに知っている人が1人しかいなくても飲み会があれば参加していた。

知らない人がいればそれだけで、私が参加するモチベーションになったものだ。

さすがにネットは同じスタンスではいられない。自分から歩き回っていては、自分がどこにいるのか分からなくなるし、ネットの世界は有象無象の集合体なので決して心地よい出会いばかりが期待出来ないからだ。

年齢を重ねると交友関係が狭くなることが多い。学生時代ならばクラス替えがあり強制的に新しい友人ができたものだが、社会人になり、特に小さな会社にいると人間関係は完全に硬直してくる。

私はいまだに新しい友人が出来る。これは「犬も歩けば」精神の発露である。例えば昨年働いた警備員時代の友人が何人かいて、いまでもたまに呑んだり、電話で近況報告し合ったりしている(警備員は暇な時間があるのだ)。

トロンボーンを始めて友人が増え、今オーケストラを初めて新たな知己を得ることが出来た。もしかするとこの新しい知り合いの中から生涯の友となる人がいるかもしれないと思うとワクワクする。

確かに時間がいくらあっても足りないし、やはり旧友とは疎遠になりがちだが、なんとか古い縁を切らずに、新しいフィールドを広げたいと私は常に願っている。4月から大学院に行くがそこでも新しい友人は出来るだろうか?

私はまだまだ棒に当たる為に歩き続ける。とはいえ、その友人が「棒」というわけではないが。

君子危うきに近寄らず

13 木曜日 3月 2003

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今日静岡で、ビルの解体現場で事故があって、壁が崩れ作業員を含み、一般道で信号待ちをしていた乗用車に被害が及び死者も出たようだ。

私の8ヶ月に及ぶ警備員生活から得た教訓としては、君子危うきに近寄らずではないが、工事現場には絶対に近寄らない方がいいというものだ。

現代の工事現場は安全に関して配慮がされているし、第一そこで作業する人が一番危険な場所にいるのだから、基本的には危険な作業はしないことになっている。しかしそれはあくまで建前で、実情とはかけ離れていることが多い。

もちろん基本事項をきっちり守る現場監督もいる。しかし大抵は安全よりも、工期優先だったり、価格優先だったり、もっと酷い現場になると「楽さ優先」だったりするのも事実である。そのために安全が蔑ろにされたり、無視されたりするのだ。

ビルの建築現場や解体現場は一般的には、歩道に面していることが多い。その場合仮囲いというものをして音や埃が飛ばないように配慮されているが、実際はコンクリートが倒れてくればあんなものはひとたまりもない。

私が見たある現場では風の強い日に仮囲いが倒れ(トビさんがきちんと締めなかったのだ)歩行者に危うくぶつかるところだったことがある。

今日の現場はヤオハンのビルの解体でテレビで見ると相当大きな現場だ。相当の量のコンクリートが鉄骨もろとも倒れたようだから、仮囲いが何の意味もなさないのは明らかだ。そもそもあの仮囲いはコンクリートが倒れるのを防ぐようには出来ていないのだ。

皆さんに警告しておく。明日から建築現場の仮囲いのそばを歩くことは絶対にやめた方がいい。上からハンマーが落ちてきて頭にぶつかる心配はないと思うが、もし何かあったとすれば、ハンマーどころでは済まないからだ。

事故の確率がどれくらいかは分からない。もし少しでも建築業界に詳しければ、仮囲いに貼ってある工事会社の名前を見ればこの会社は危ないか安全か分かると思うが、一般の人にはその指標がないのだ。

道路工事も含めれば、その全部を避けて道路を歩くことは極めて困難だが、悪いことはいわない、とにかくそういったところには出来るだけ近づかないことだ。

利益を得たら対価を支払う

13 木曜日 3月 2003

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株価が7800円台だそうだ。1983年1月以来の株価だそうだ。全くいつになったら不況の底を出るのか、しかもこれが悪いことにインフレ不況で生活に困るわけでなく、デフレ不況で何となく生活していけるものだから、多くの人にとって必死感がないように感じられる。

私は経済については素人なので、これは単純な疑問なのかもしれないが、経済は振り子のように振れるという。必ず同じような波を繰り返すと聞いたが、では、この不況だっていつか底を脱するのは理論的な話しではないだろうか?

どこまでの深い底なのかは分からないが、いつかは絶対底を打ち、元の方向に振れていくのではないだろうか?もし人為的にその振り子のタイミングをずらすことが出来るのだとしたら、それなら好景気の時に振り子を止める努力をすればいいだろう。

ところがそれをしないのは好景気の時は無限に利殖に励み、どこまでも利益を得ようとするからだ。そちらに思い切り振ったのがバブル景気だったのだから、今回の不況も同様に深いものになると私は考える。

そして都合良く好景気の時に振り子を好き勝手にさせたのだから、不況の時にそれを止めようとしてもそうは簡単には止まらないだろう。

最近銀行ATM手数料の話題になると「自分のお金を出し入れして」というのが枕詞のように聞かれる。私は絶対的に銀行嫌いで、いくら潰れようが税金の投入には反対だ。

しかし、自分のお金を出し入れして等という自分勝手で、呑気な意見には全く腹がたつ。銀行にお金を入れれば自動的に利息が付くのは幻想だ。それは今の低金利で身に染みて分かっているだろう。どんなにアホな人でも銀行も経済活動によって利益を生んでいることは理解している。つまり銀行は慈善事業ではなく普通の企業活動だ。利用者は利益だけを享受しうるか?

答えはNOだ。我々が利息やお金を預ける安心感を得る代わりに、彼らはお金を貸し、手数料を取りして利益を得るのだ。土曜日や日曜日にお金がかかるのは至極尤もだろう。だから専門家は「横並びがおかしい」と他の点から疑問を呈するのだ。とはいえ、両替の手数料については銀行業の本来論からいっておかしな気がする。

私は数字に弱いのであまり非難出来ないが、日本人はどうしてこうも数字や経済に疎いのだろうか?もう少し社会の仕組みやお金や物の流れなど基礎から勉強する必要があるし、それこそ義務教育で必要なのではないだろうか?

怖い世の中

12 水曜日 3月 2003

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これはずっと以前に友人と話したことだが、確か私が小学生とか中学生の頃というのは、日本の警察の検挙率は8割だか9割だかで世界一!私達は世界一治安の良い国に住んでいるんだと物の本か新聞かで読んだ記憶がある。

私の記憶はともかく、ネットで調べてみても1970年くらいまでは、概ね6割から7割の検挙率であったそうだ。ところが、最近の刑法犯の検挙率はなんと2割を割り込み19%とかいう始末のようだ。

もちろんこれは、私は警察だけを責められないと思っている。例えば、人口にだけ限ってみても1970年1億と400万人弱だった日本の人口は2001年には1億2,730万人と単純に2300万人も増えている。

恐らく犯罪というのは都市部で増えているわけで、この日記は別に犯罪白書ではないので、都市部と郡部(というのだろうか)の犯罪比率についてまでは言及しないが、要するに人口が増えているのは都市部で、恐らく犯罪が増えているのも都市部なのだろう。そして検挙率が下がっているのも同様に都市部なのではないだろうか?

人が多いのだから捜査がしにくいというのは誰でも考えられる。警察官の数がどれくらい増えているのかということも重要なポイントだが、繰り返すがここは犯罪白書ではない。確かに毎日犯罪のニュースを聞くし、私が中学生くらいまでは殺人というのは大ニュースだったように感じる。今でも重要事件ではあるが、以前ほどニュースバリューがないと思う。

ここを読んでいる人でも、大いに犯罪に関係があるのは自動車を運転する人だ。速度違反、駐車違反、信号無視、場合によっては飲酒運転。実はそのどれもが私は経験したことがある。速度違反では2度、罰金を払っているし、酒気帯び手前で検問に引っかからずに冷や汗をかいたこともある。

私は18歳で自動車運転免許を取得したが、取得してから、それまで市民の保護者に見えていた警察官が、途端に敵のように思えたことを思い出す。そして向こうが国家体制を護持する官権なら、私はさしずめ反体制派の犯罪者というわけだ。

紙幅の都合で結論に飛びつくとする。警察官は法の実践家であるはずだが、その法が実体にそぐわなくなってきている。ネット犯罪やら、ストーカー犯罪、外国人の犯罪、ホームで殴られて殺されたり、刺されたりすらする。それらは我々の身近に迫ってきているのだ。

自分の身は自分で守らなくてはならないと強く感じる今日この頃である。

ほろ酔い

11 火曜日 3月 2003

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歌人の俵万智がこんな事いっていた。「若い頃は、お酒も恋愛もトコトンという感じがあったが、30歳台、40歳台になってほろ酔いというか、程々でも楽しめるようになった」なる程なぁと。

どちらかといえば私はトコトン教の信奉者だしそれを実践してきた。酒の席では何かの理由がなければ、自分から帰るということはないし、恋愛の為に生活のリズムを崩し、趣味の為には湯水の如く浪費してきた。

そういう生き方が潔いと思っていたし、事実これは若者ならではの特権だろう。

そんな私も30歳代の半ばにいる。

私はこのままトコトン教を続けるつもりでいる。大人ぶって分別くさいことをいいながら酒を飲みたくはないし、「いい歳こいて」というのを誉め言葉としてやっていきたいと思っている。

振り返るまでもなく、私が高校生や大学生の頃、35歳といえば「もの凄い大人」だった。本当におっさんで、人間として完成されているように映っていたのだ。しかしそれが幻想であることに気が付いたのは今から10年くらい前のことだ。

「女は女に生まれるのではない。女になるのである」といったのはヴォーボワールだが、私はその逆で人間は大人にはならないと思っている。元々大人っぽかったのか、自分の子供っぽさを理解していてそれを押さえるのか、のいずれかだと思っている。

だからこそ、大人になってもやんちゃしている人を見ると、呆れたような賞賛したような目線で見てしまうのだ。そして大抵はそういうやんちゃな人間は成功しているか落ちぶれているかのどちらかなのだ。

しかし逆に大人になれない私としては「大人の魅力」というものにも憧れる。節度とか程々とか、そしてほろ酔いとか。

実際、体力的なこともあるが、トコトンやらなくても楽しめるようになっては来ているし、20歳代の頃と比べて「トコトン」の限界点が低くなっているような気もする。トコトン比べをすれば、当然若い人には負ける。

そのことを認めても恥にはならないだろう。しかし、それでも私はトコトンを楽しみたい。ほろ酔いを楽しむことはこれから先、いくらでも出来るだろうし、それしか楽しめなくなったときのためにとっておこうと思っている。

大人げなく、とか、いい歳こいて、は私の場合は誉め言葉だ。今も、この先も。

旧友との語り

10 月曜日 3月 2003

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土曜の夜に古い友人から電話が来た。医者になった唯一の友人で私のことを最も良く理解してくれている友人の一人だ。

彼と話している中で「中学の時のあの先生が嫌いだったし、あの先生さえいなければ私はもっと英語が出来たはずだ」と愚痴をこぼすと、彼はいつものように毅然と「そうではなくて、先生がどうであろうと、自分で分からないところは、自分で勉強すべきだ」と言い放った。

全くの正論で、反論に窮したが、この話には大前提が2つつく。1つは自分で勉強するモチベーションが(中学生に)あること、もう1つは、分からないことを自覚する自己分析機能を持っていること、だ。

友人は確かに中学生の頃からよく勉強していた。勉強自体が意味がなく嫌いだと考えていた私とは対照的に。そして私は先生を「好き、嫌い」の対象と考えていたが、どうやら友人は先生はそこにいる人としか捉えていなかったようだ。

アプローチとしては友人のいうことにどこも間違いはない。私を始め多くの子供が先生の好き嫌いで教科に得手不得手が出来るが、自分で勉強すればそんなこともないし、現代に置き換えても「ゆとり教育」とやらで勉強時間が減っていることが何の妨げにもならない。

さて、これは何もいいわけではないが(少なくとも、その友人との間でいいわけは必要ない)私を始め多くの人は「分からないことが分からない」し、「どこが分からないのかも分からない」ということが多いのだと思う。皆さんはどうだろう?

私は歳をとってからトロンボーンを始めた。だから初心者がどこでつまづくか良く分かる。何が出来ないのか、どこが難しいのかを自分が自覚しているからだ。フランス語に関しても同様だ。こうしたことを論理的にシステマティックに理解し、実践するにはある程度の年齢が必要だ。逆にいうと子供なら論理が理解出来なくとも、体で覚えてやってしまうからだ。

私の友人はそういう面に関しては非常に大人だったということになるが、人間というのはバランス良く出来ているもので、他の子供っぽい部分で私と趣味が合うので、長い間友情が続いてきたのだろう。

実のところ、私の友人の中でも、彼は極めて私によく似ている。もちろん温厚で思慮深い彼、短気で短慮な私、不器用な彼(失礼)、程々に器用な私。こうした事実はまるで何かの表裏のようだが、表裏とした時の実体としては同じものなのだ、と私はいつも思ってる。

レッツ、オケスタ!

09 日曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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オーケストラの曲はそれこそ星の数程ある。交響曲、協奏曲、オペラの膨大なレパートリー、映画音楽やポップスなど含めると無尽蔵といっていいだろう。

私の知る限り、どんな楽器でもその曲の間中ほぼ休みなく弾きっぱなしということは少ない。途中で休みがあったり、演奏者にとっては休みと同じような、伸ばしとか後打ちの部分というのは、特に低音楽器の場合は凄くある。

そういう伸ばしなどは、改めて練習しなくとも、それこそ初見で演奏することもそれほど難しくない。しかしどんな曲にもそれなりに難しい部分があって、そこを抜粋して「オーケストラスタディー」として必死にさらうのだ。

私にとってはそこへ行く前の段階で問題がある。まず第一に「音色」、トロンボーンは音の大きな楽器だから、目立つといえば目立つ。私はようやく最近ロングトーンでいい音が鳴るようになってきたが、これが演奏中はなかなか出来ない。特に楽譜を必死で読んでいると音までは気が回らない。そうすると変な音でボヘーとやることになる。

次ぎに「タンギング」の問題がある。トロンボーンは出番が少ないので、その少ない出番を完璧にこなす必要がある。でないとしくじった時に取り返せないのだ。そのためにはいつでもどんな大きさでも完璧なタンギングが出来ないといけないのだ。

そして最後の問題は「ボリューム」だ。私は普段ミュートをつけて近隣の迷惑にならないように吹いている。習いに行っている学校も部屋が小さいので最大ボリュームで吹く習慣は付いていない。いざオーケストラで大きな音を出そうと思っても出ないのだ。

私のオケスタはそこから始まることになる。

因みに今日は「美しく青きドナウ」をやったが、この曲はトロンボーンの出番はない(バストロンボーンだけ)。暇をもてあましている私に指揮者が「チェロのパートやってもらえませんか?」といってきた。確かにチェロとトロンボーンは音域も似ているし、楽譜もヘ音記号で一緒だ。

もらった楽譜を見てみるとほぼ伸ばしと後打ちなので、挑戦してみた。初見の割には結構出来た。少なからず私の力が伸びていることを実感出来たが、やはり難しいところもある。「では、コントラバスはどうですか?」

楽譜を見てみると今度は伸ばしと頭打ち、しかもチェロより簡単。しかし簡単になると今度は上記3つのポイントが見事に具現化する。

面白い経験が出来た。そしてまだまだ修行しなくては。

失われた時を求めて

08 土曜日 3月 2003

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私は人生というのは一度きりだから面白いと思っているので、どこかからやり直したいとか、あの場面に戻りたいとか、あれはやっておけば良かった、あれはしなければ良かった、とかの思いはしないようにしている。

しかし、そんな私の人生でほぼ唯一といっていい程、後悔していることがある。

私は95年の4月から「日本語教師養成講座」を受講したことがある。これは94年に前職を一旦辞めようと思い、会社の留意により翻意したのだが、その後在職のまま、何か資格を取り転職しようと思ったのだ。

94年の時私が候補に上げた転職先は、飲食店か塾の講師だった。では何故日本語教師かというと、それは私の心の中では塾の講師の延長線上にあり、要するに先生として教えるのなら外国人に教えたいという思いがあったからだ。94年に初めての海外旅行をして私の目は海外に向いていたのだ。

実際のところその頃の私は「日本脱出」を口にしていた。これは実は中学校時代からの希望でもあった。そこで日本脱出のツールとして日本語教師を選んだのだ。

本講座約10万円、副教材約10万円の当時の私にとっては(今でも変わらないが)大金を払い通信教育を受けた。ところが私はその10ヶ月の講座の最後の1ヶ月まで来てあと2本論文を書いたら終了というところで受講をやめてしまった。

なぜか。

全くアホのような話しだが、当時付き合っていた彼女が「日本からは絶対に出ない」と言い張り、私としてはこれ以上勉強を続けていても無駄だと感じたのだ。

馬鹿げた話しだとは思うし、自分自身も書いていて恥ずかしいのだが、当時彼女が出来たことにより転職の意識は薄れ、安定志向になり、同時に勉強が無意味なものに思えたのだ。彼女のせいではなく、私の薄弱な意志のせいなのだ。

7年経ち、いま私はその失われた時を「取り返そう」と思っている。幸いに私は物持ちが良くその通信講座の教材は副教材を含めてそっくり残っている。しかもここ数ヶ月の私の向学心の行き先としては誠に都合がよい。

10月の「日本語教育能力」試験を受けてみようと思っている。この先私が日本語教師になるかどうか分からないが(元々そのつもりよりも、国語と呼ばれている日本語を勉強しようというつもりで始めた部分もある)、もしこの資格が取れれば、私の失われた時を取り戻すことが出来るような気がしている。

ベルを購入

07 金曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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本日はトロンボーンに興味のない方にはちんぷんかんぷんだと思うが、紙幅の都合で逐時の解説はしない。

Yahoo!のオークションで私のコルトワ300のベルを落札した。因みに価格は1万1千円。私の300は恐らく20年くらい前の楽器だと思うが、金管楽器としてはそれほど古い楽器ではない。ストラディヴァリウス等の木製楽器の寿命が300年から400年とされているに比べて、金管楽器はより分子が動きやすいので寿命は80年から120年といわれている。

私は寿命が過ぎた木製の楽器を見たことがないのだが、金管楽器に関しては「音に腰がなくなる」というのだ。生きている楽器は金管特有の張りのある音がするのだが、死んでしまうとスカスカの音になるというのだ。実際に聞いたことはないが、何となくイメージは出来る。

さて、こういう前提の話しを何故しているかというと、では金管楽器のポイントはどこにあるかというとその材質にあるからだ。金管楽器のほとんどの材料は「ブラス」つまり真鍮だ。真鍮は銅と亜鉛の合金で、質量は鉄よりも重いが、柔らかい。

この合金というのがくせ者だ。ではどの割合で行くのか?恐らく古今東西多くの金管楽器製造者がその配合に頭を悩ませてきたことだろう。通常の比率というのは私は分からないが、私のコルトワに最初についていたのは「赤ベル」即ち、銅の比率が高いベルだった。

赤ベルというのは、渋く落ち着いた音がする。通常の真鍮は磨いてあれば黄色いので「黄ベル」と呼んでいる。明るく、軽く、張りのある音がして、これが金管の音と呼ばれるものになっている。

この他に銀メッキや金メッキをかけたもの、素材自体を金や銀で作ったものなどあるし、フルートではプラチナで作ったものもある(一部かもしれないが)。

どうして楽器奏者が材質にこだわるかというと、それはやはり音には「色」があるからだ。「音色」というが、音楽を長くやっているとうすらぼんやりと、それが実感出来る。絶対音感があるような人だと、はっきり何色とまで言ったりする。

今までの赤ベルはオーケストラで力を発揮するだろうし、今回買った黄ベルは、アンサンブルやソロの時に使おうと思っている。

いや、そんなに楽器を替える程実力があるわけではないが、その違いが分かるくらいにはなってきた。これを励みに練習にも力が入るし、活動の場が広がればと思っているのだ。

人間は完全ではない

05 水曜日 3月 2003

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今日は久しぶりに快哉を叫んだ。小泉総理が「世論が常に正しいとは限らない」だからアメリカを支持すると国会で答弁したからだ。

繰り返すまでもないが、私は戦争反対だ。今では反米思想すら持っている。しかし日本の国益ということを考えるとそれはそうもいっていられない。

なんでも明らかにすべきだと野党、特に赤い人達は考えているようだが、小泉総理のはっきりしない態度、川口外相の歯に物の挟まった物の言い様は、逃げ道を残すという意味において、私は国益に叶っていると思っている。

なんでもすぐに拳を振り上げて立場を鮮明にすればいいと思っているのは、非常に浅はかで幼稚な行動だと私は思っているのだ。

ちょっと話しがずれた。

とにかく、今までまるで支持率だけが頼りのようにいわれていた総理だが、その総理が支持率を生み出す世論に敢然と反旗を翻したのだ。

いうまでもなく、世論がいつも正しいとは全く言えない。ドイツは人類史上最大の戦争に突き進んだし、アメリカはテロと闘うと称して内政干渉を行っている。日本も同様にとても論理的に、理性的に世論が形成されているとは思えない。

大衆は馬鹿であるといったのはナチスの宣伝相ゲッペルスだが、大衆がヒステリーを起こしやすく、安易な結論に飛びつくのは何も昨日今日始まったことではない。

では小泉総理が正しい判断を下しているのか?といえば、私は今回のことで再び彼を見直した。

人間は完全ではない。難しいのはどの部分を持って、もしくはどの程度の比率分量を持ってその人を評価するかだ。彼が完全な人間でないからといって非難をするのは間違っているし、彼のいい部分だけをとって、全肯定するのも非常に危険なことだ。

何も小泉総理だけに限らない。繰り返すが人間は完全ではないのだ。結局何を評価するのか、どれだけ許せるのか、そんなところに帰するのだと考えている。

戦争は間違っている。だが、だからといって大衆に迎合してはいけない。頑張れ小泉!といまは言いたい。

追記:塩爺も頑張ったようだが、同様に頑張れとエールを送ろう!!

ついていない日

05 水曜日 3月 2003

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なんだか13日の金曜日で仏滅で三隣亡のような日だった(ん、分からない?)。

確定申告に行ってきたが、ちょっとこの話は書けない。風が強くて自転車を漕ぐのが大変だった。帰宅してからメールをチェックすると、上司と意見の齟齬があった。この話も生々しすぎて書けない。

なんだか、くさくさとして、ニュースを見ていると塩野谷晶という女性秘書が逮捕されたニュースをやっていた。実は私はこの人を知っている。以前いた出版社が坂井隆憲議員の秘書とつながりがあり、私は議員とも数度会っているし、この秘書とも数回会っている。

もちろん向こうは覚えていないだろうが、知っている人が逮捕されるというのは嫌なものだ。この坂井という議員について知っていることがいくつかあるが、やはり生々しすぎるのでここでは書けない。

因みに森首相の時の官房長官だった中川議員を座長に研究会を開き、その時の主催がこの坂井議員だったが、その研究会に会議録を作る為に私と社長で参加したのだった。その時の話も同様に生々しすぎて書けない。

誰も見ていないとはいえ、インターネットだ。ここにうかつなことを書いて、私が失踪したりしては嫁が可哀想だし、身に覚えのない罪をきせられて投獄されるのもイヤだ。こんなに神経過敏に(冗談だよ)なっているのは、この前の土曜日に「エネミー・オブ・アメリカ」という映画を見たからだ。

国家権力といえどもそれは人間が動かすものだ。悪用すれば、私のような市井の民はアッという間に踏みつぶされてしまう。映画とは違い私には助けてくれそうな友人もいない。

そんなことをつらつら考えて早めに寝たが、どうにも悶々として寝付けなかった。

本当にこういう何をやっても上手く行かないついていない日があるものだ。ついていない日はおとなしくするに限る。

明日はきっといい日だろう。

ひな祭り

04 火曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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中国では1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は5節句といってお祝いする日だが、何故奇数ばかりかご存知だろうか?

ちょっと以前に流行った「陰陽師」に関係がある。あんな霊能力者まがいのものはインチキだとお思いの方もいるとは思うが、この陰陽という考え方は中国を中心として日本にも多大な影響を及ぼしている。陰陽についてきちんと勉強したわけではないが、陰陽道では「奇数は、陽」なのである。

それ故にその陽が重なる日をお祝いの日に当てているわけだが、特に9という数字は陽の極みとされ9月9日は「重陽の節句」として名残がある。これまた調べたわけではないが、「重陽」は陽が重なるという意味だから本来は今日も「重陽」の日に当たると思うがどなたか詳しい方はいるだろうか?

と、でっかいところから始まったが、私の生家は貧乏で家も小さく狭かったため、きちんとしたおひな様を飾ることがなかった。私は五月人形には興味はないがおひな様も5人囃子くらいまでは飾りたいなぁと、娘もいないのに思う。

今日見たNHK-BSの番組で知ったのだが、京都ではお内裏様とおひな様の並びが他とは逆でお内裏様が右に来るのだそうだ。結婚式場でバイトしていたものとしては、どうにも見慣れないので見た瞬間に違和感を感じてしまった。どなたか理由をご存知だろうか?

さて、そんな東京地方では「春一番」が吹いた。これは気象庁の定義によると「前日より気温が高く、風速8m以上の南風だと春一番」ということだ。以前にも書いたがこの風が札幌で観測されるかどうかは分からないが、少なくとも北海道にいた時に「今日、春一番吹いたね」と話し合った覚えはない。

これから東京は5月まで一番いい季節を迎える。

と、書きたいところだが、花粉症の人にとっては地獄のシーズンだろう。とにかくマスコミでこの単語が乗らない日がないくらいだが、これだけ報道されると気が弱く、小心者な私は自分もまるで花粉症になったかのように感じる。

今日も部屋の換気の為に窓を開けていると、鼻がムズムズしてきて、鼻水が出てきた。気のせいなのは分かっているが、激しく吹き込む風に花粉が大量に含まれているという知識が、身体を反応させているようだ。

これを進化というのか退化というのか分からないが、全く困ったもんである。日本中の「本物の」花粉で苦しんでいる方に応援のエールを送りたいと思う。

やっぱり石油王

03 月曜日 3月 2003

Posted by emno78 in 未分類

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昨日の話はああ書いたが、ほとんどの人の悩みはお金で解決すると思っているし、私もそうだ。

一昨日「マネーの虎」という番組で吉田栄作がいいことをいっていた。「お金という価値を超えられるような人間になりたいと思っている」と。この番組は夢や野望のある若者が、事業で成功した「虎」と呼ばれる人達(多くは自分の力で会社を興し成功した人)、にプランを話しお金を出してもらうという番組だ。プランが甘いとぼろくそにいわれてこてんぱんになるが、何か虎の琴線に触れるとお金はどんどん積まれる(2000万円積まれたのを見た)。

この番組がやらせかどうかはこの際置いておくが、その番組の司会をしている吉田栄作の発言は現金が飛び交う番組だからこそ私の心に響いた。

私には大した事業プランはないからこの番組に出ようとは思わない。私は簡単にいってお金儲けには興味がないのだ。お金も好きではないといっていいかもしれない。私が好きなのはものや時間や場所でそのためにお金がいるのだ。だから使い切れない程のお金が欲しいとは思わない。

トロンボーンのレッスンにいって師匠とお金の話しになった。私は最近この手の話しをする時に「最終的に石油だ」ということにしている。サウジの国王がスペインの別荘に行った時に物乞いにやってきた人何千人だかに、食事を振る舞い、一人20万円近くのチップをはずんだそうだ。毎日500万ユーロものお金を使っているそうだ。

我々の目はアメリカやヨーロッパに注がれがちだが、不動産やコンピュータソフトで成り上がったお金持ちとはケタが違うのだ。やはり(枯渇するまでは)石油王が本当の王様だろう。

師匠に「油田掘りましょう」とわけの分からないことをいってレッスンを後にした。

帰宅してから見た日曜洋画劇場は007「ワールド・イズ・ナット・イナフ」だった。奇しくも石油のパイプライン絡みのお話しで、私は映画を見ながら(もちろんこの映画は既に見ているが)やっぱり石油だよなぁ、と変に頷いてしまった。

私は既に石油王の家に生まれることは出来ないし、恐らく油田を掘り当てることもないだろう。現実に戻ったものの、いや、もしかするとどこかで石油王に出会って「お前はいい奴だ、油田を一つやろう」といってもらえるかもしれない。

油田一つでどれくらいの埋蔵量があるのか知らないが、私の悩みを解決する分くらいにはなるのだろうか?

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