私が多数決の民主主義が嫌いと公言しているのは、それがベストだとは到底思えないからだ。

民主主義の根幹である多数決は、少数意見を黙殺する。それをしないためには、決議の前に十分な議論が必要になる。議論に議論を尽くして、相手の意見を聞き、自分の意見を主張して、最終的にどの意見が良いと思うかを多数決で決める。

まず、議論できる十分な知識的、文明的な素養が必要になる。人は言葉を発することで自分の意見を再確認することがあるし、他人の意見を聞くことで、最初に持っていた意見とは変わってくることがある。こうした建設的な議論ができる人たちがいるのであれば、民主主義も機能するし、それを判断する有権者にも、同程度の知識や経験や了見が必要になる。これがなければ、形式だけの民主主義は単なる快楽追求者、利益追求者によるポピュリズムに陥る。

会社での少人数の会議でも、議論が迷走することがある。声が大きかったり、数字の根拠を持つ人が発言するために、結論が揺れるのだ。これが国レベルで行われるとなると、なんでもそうだが容易に結論は出ないのだ。

そして、最も欠けている視点が、「投票に責任を持つ」ということだ。提案した人間が責任を取るのは当たり前だが、それを支持した人間も当然責任を負わなくてはならない。その覚悟がないのに投票だけするのは、まさに形骸化した判断と言うべきだろう。勢い、正しい判断が行われるとは限らない。

毎回、この話題の時に中国を引き合いに出して申し訳ないが、例えば中国では未だに、賄賂がまかり通る、というかそれが当たり前なのが中国社会だ。

自分のことだけを考えて、自分の利益だけを求める人間の集合体には民主主義は適さない。これが私の言いたいことだ。成熟した社会であれば民主主義も機能するだろう。

要は、馬鹿と鋏は使いようなのだ。

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